歴史学で衆院選2017を考えてみる―分かれ目のありか
ぼくらはいつも歴史しています。こんな国政選挙のさなかにも。
「は,センキョ?知らん」と言うときにも,「おぉ選挙ね」と騒ぐときにも,人は歴史像を土台にするからです。そしてちょっとおもしろいのは,一見すると対照的なこのふたつの反応が,実はひとつの歴史像を共有していることです。
選挙に無関心でも構うまいという判断を支えているのは,イヤ別に選挙の結果ごときでオレの生活に影響あったためしなんてないという経験や想定です。政治とは関わりなく日々は流れていくはずという歴史像です。
選挙に関心をいだく人はそんな呑気なことはおっしゃいませんね。もっとも,緑色の党が急に登場してからの報道は政局一色という気がします。各紙一面見出しを眺めてみましょう。先週は「自公vs希望」で,今週になってからは「三つ巴」でしょうか。煎じ詰めると,勝ち馬はどいつだと問うわけです。このときもまた,ある歴史像を土台にしていることにお気づきでしょうか。
9月28日に民進党が事実上の解党を決めたとき,その重みを報じた新聞記事はほとんどありませんでした。選挙という勝負に注目するなら,民進が希望の党に合流して,自公との一対一対決ですから,おぉ俄然おもしろそうとも見えます。けれども見落としたのは,二大政党制を目指す体裁をとってきた議会政治の表舞台から社会民主主義の看板が消えかけてしまうこと(あ,すみません,社民党や共産党さんがおられます)のインパクトです。
この見落としを可能にするのが,イヤ別に選挙の結果ごときでオレの生活に影響あったためしなんてないよというある種の経験に裏打ちされた想定(=歴史像)です。だいじょ~ぶ,選挙ショーを楽しもう?あれれ,選挙無関心派のみなさんと根本は同じ。大きな変化なんて起きないさという「非歴史的な歴史像」が幅を利かせているのです。
けれども,この歴史像は鍛えなおす必要があると思うのです。安倍さんの政治は,政治の仕組みを根本から壊そうとするものです。説明しない,記録は抹消,そもそも議会を開きません。小池新党もびっくりするほどよく似ています。決定の根拠も過程も示さない。なにかというと専断で,異論を封じ込める。そうねぇちょっとひどいかなぁは歴史的にみて甘い評です。民主主義の骨格はゆるがないはずだという思いこみ(歴史像)は,メンテナンスを怠った民主政国家がいますでにあちこちで破綻していることを見えなくします。
いやぁ,民主主義は食べられないからなぁというご友人とは,では経済は,暮らしは,子育てはと話し合ってみてはどうでしょう。
ときどきお灸をすえても自民党におまかせで万事OKだった20世紀後半はとうに過ぎ去っています。政治をどこか遠くにしまい込んで,職場で励めばうまくいくと思えたのは,歴史的にはむしろ例外的で一過的な時代です。大きなパイをみんなに配れるという想定は通用しません。誰にどう配分すると,人と社会は幸福で活力をもてるのか。百年先のために,生まれてくる子どもたちのために,なすべきはなにか。ビジョンが問われます。自分がやったことやろうとすることの検証から逃げ回り,議論を封じる政党には,こういう場面でのアイデアを期待できません。社長専断しか知らない人たちには現代史パズルは解けません。この土壌をつくる基礎条件が民主主義。食べていくための要件です。
ちなみにミサイルを撃つ北朝鮮は困りますが,困ったとか言うわりには,ではなにかことが起きたときの東アジア秩序をどうするかなど論じられていましょうか。騒ぐ割には関係諸国となにか相談を進めていますか(え,トランプと意見が「完全に一致」したと胸を張るのはやばいです),イニシアティヴをもっていますか。武装難民を撃ち殺せといった戯れ言は,状況が変化する可能性をなにも考えていない証拠。いま世界でなにが起きているのかすら勉強していないのでしょう。
社会は動き,歴史は変動のときを迎えています。20世紀後半の眠りからはもう醒めないと,政治も経済も暮らしも外交も,決定的な転落を迎えるかもしれない地点に日本社会はいます。そして不幸なことですが,政策で選ぼうというはるか手前に分かれ道があります。なんとまぁしょぼい選択肢だろうと思いますが,でも放っておくと状況はもっとひどくなるかも。手持ちのカードをできる限り有効に切っておかないと、この歴史的な転機には備えられないと思うのです。
こんなわけで,歴史学者マツバラの視点から整理すると,今回の選挙は二極対決。「自民・公明・希望」で窒息するのか,「立憲民主・共産・社民」で芽をつくるか。まだ公約の内実すらよくわからない時点ですが,ひとまずこう見立てておきます。
ぼくらはいつも歴史します。目先の政局観測やらメディア戦術にふりまわされずに,遠くを見据えて石を置くのはけっこう楽しい。