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池袋のへそ―立教、ファースト・インプレッションズ2

こんなご時世に、平気な顔でリベラルアーツの意義を謳う。しかも不穏で危険な学であれと言う。お上の言うこともそのまま聞く気はないぞと文書になっている。へぇ、こんな大学らしい大学が今でもちゃんとあるんだ。腹が据わっているな文学部。やるじゃない立教。

前任地にも自由の気概は満ちていたと思うし、学生たちはラディカルかつ優秀。でもいったん学科・課程や学部の外に出ると猛烈な逆風で立っているのもひと苦労みたいな感はありました。

違いを生み出すのは、大学の編成原理でしょうか。

国立大学で人文社会科学の意義を説くとき、それが世界への責務だとわたしは論じたと思います。ところがこの言い方をすぐに誤読する人が出てきます。国益にかなうか、ひらたく言ってもうかるか、なにか新規市場を開けるのかと。その成り立ちからして国を担い、国策を支える人材づくりを目標に生まれた地方国立大学では、「世界への責務」はいつも狭っ苦しい意味に切り詰められがちでした。

池袋のこの校地にはこういう世俗的で国家的な論理以外の原理が埋め込まれているようです。人とはどんな存在か。この世界はどうなっており、いかにあるべきか。そしてそのために、この大学にはなにができるか。世間でもお上でもましてや市場のためでなく、生のためにこそ考え、論じ、動けと。日常的にはまったく世俗的な大学ながら(わたしクリスチャンじゃないし)、そのへそには世俗一本におさまらない倫理の軸が通っているらしい。なかなかしたたかです。

ひるがえって、そうかとぼんやり気づきます。いまの日本の社会に、大学に、政治や職場に欠けているのは、複線的・複層的な価値や論理を埋め込むための工夫か。それはなんだろうと考えをめぐらしています。

Rikkyo_2

(本館をはさんで両側に旧図書館とチャペルとが並びたつ。)

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