15年ぶりの刊行なった『第四次 現代歴史学の成果と課題』をめぐって、わたしも一席お話します。歴史学研究のいまを一望して、次の課題群に見通しをつける会になろうかと。
日時:2017年12月2日(土)13:00~17:30(開場12:30)
会場:早稲田大学戸山キャンパス 36号館681教室
https://www.waseda.jp/top/access/toyama-campus
報告者
大門正克 現代歴史学を串刺しにする
-『第4次 成果と課題』の構想と発刊をふまえて-
松原宏之 文化からたどりなおす現代歴史学
-ジェンダー、身分、政治経済-
若尾政希 いまなぜ歴史実践か
コメント 加藤陽子、仲松優子、浅田進史
http://rekiken.jp/seminars/Symposium.html
ぼくらはいつも歴史しています。こんな国政選挙のさなかにも。
「は,センキョ?知らん」と言うときにも,「おぉ選挙ね」と騒ぐときにも,人は歴史像を土台にするからです。そしてちょっとおもしろいのは,一見すると対照的なこのふたつの反応が,実はひとつの歴史像を共有していることです。
選挙に無関心でも構うまいという判断を支えているのは,イヤ別に選挙の結果ごときでオレの生活に影響あったためしなんてないという経験や想定です。政治とは関わりなく日々は流れていくはずという歴史像です。
選挙に関心をいだく人はそんな呑気なことはおっしゃいませんね。もっとも,緑色の党が急に登場してからの報道は政局一色という気がします。各紙一面見出しを眺めてみましょう。先週は「自公vs希望」で,今週になってからは「三つ巴」でしょうか。煎じ詰めると,勝ち馬はどいつだと問うわけです。このときもまた,ある歴史像を土台にしていることにお気づきでしょうか。
9月28日に民進党が事実上の解党を決めたとき,その重みを報じた新聞記事はほとんどありませんでした。選挙という勝負に注目するなら,民進が希望の党に合流して,自公との一対一対決ですから,おぉ俄然おもしろそうとも見えます。けれども見落としたのは,二大政党制を目指す体裁をとってきた議会政治の表舞台から社会民主主義の看板が消えかけてしまうこと(あ,すみません,社民党や共産党さんがおられます)のインパクトです。
この見落としを可能にするのが,イヤ別に選挙の結果ごときでオレの生活に影響あったためしなんてないよというある種の経験に裏打ちされた想定(=歴史像)です。だいじょ~ぶ,選挙ショーを楽しもう?あれれ,選挙無関心派のみなさんと根本は同じ。大きな変化なんて起きないさという「非歴史的な歴史像」が幅を利かせているのです。
けれども,この歴史像は鍛えなおす必要があると思うのです。安倍さんの政治は,政治の仕組みを根本から壊そうとするものです。説明しない,記録は抹消,そもそも議会を開きません。小池新党もびっくりするほどよく似ています。決定の根拠も過程も示さない。なにかというと専断で,異論を封じ込める。そうねぇちょっとひどいかなぁは歴史的にみて甘い評です。民主主義の骨格はゆるがないはずだという思いこみ(歴史像)は,メンテナンスを怠った民主政国家がいますでにあちこちで破綻していることを見えなくします。
いやぁ,民主主義は食べられないからなぁというご友人とは,では経済は,暮らしは,子育てはと話し合ってみてはどうでしょう。
ときどきお灸をすえても自民党におまかせで万事OKだった20世紀後半はとうに過ぎ去っています。政治をどこか遠くにしまい込んで,職場で励めばうまくいくと思えたのは,歴史的にはむしろ例外的で一過的な時代です。大きなパイをみんなに配れるという想定は通用しません。誰にどう配分すると,人と社会は幸福で活力をもてるのか。百年先のために,生まれてくる子どもたちのために,なすべきはなにか。ビジョンが問われます。自分がやったことやろうとすることの検証から逃げ回り,議論を封じる政党には,こういう場面でのアイデアを期待できません。社長専断しか知らない人たちには現代史パズルは解けません。この土壌をつくる基礎条件が民主主義。食べていくための要件です。
ちなみにミサイルを撃つ北朝鮮は困りますが,困ったとか言うわりには,ではなにかことが起きたときの東アジア秩序をどうするかなど論じられていましょうか。騒ぐ割には関係諸国となにか相談を進めていますか(え,トランプと意見が「完全に一致」したと胸を張るのはやばいです),イニシアティヴをもっていますか。武装難民を撃ち殺せといった戯れ言は,状況が変化する可能性をなにも考えていない証拠。いま世界でなにが起きているのかすら勉強していないのでしょう。
社会は動き,歴史は変動のときを迎えています。20世紀後半の眠りからはもう醒めないと,政治も経済も暮らしも外交も,決定的な転落を迎えるかもしれない地点に日本社会はいます。そして不幸なことですが,政策で選ぼうというはるか手前に分かれ道があります。なんとまぁしょぼい選択肢だろうと思いますが,でも放っておくと状況はもっとひどくなるかも。手持ちのカードをできる限り有効に切っておかないと、この歴史的な転機には備えられないと思うのです。
こんなわけで,歴史学者マツバラの視点から整理すると,今回の選挙は二極対決。「自民・公明・希望」で窒息するのか,「立憲民主・共産・社民」で芽をつくるか。まだ公約の内実すらよくわからない時点ですが,ひとまずこう見立てておきます。
ぼくらはいつも歴史します。目先の政局観測やらメディア戦術にふりまわされずに,遠くを見据えて石を置くのはけっこう楽しい。
5月末から2週間にわたって、ハーバード大学歴史学部のリサ・マクガーさんをお招きします。
「トランプ」より15年も前に、新保守主義の登場を20世紀アメリカ政治経済の水脈からたどって論じたSuburban Warriors: The Origins of the New American Right(2001)をいちはやく出版。関連分野の研究を引っ張ってきた一人です。
新著The War on Alcohol: Prohibition and the Rise of the American State (2016)
では、「禁酒運動」という文化史ネタから20世紀初頭のアメリカ国家機構の台頭を描きました。射程の長さも魅力で、広範な研究動向のハブに位置していますから、この機会にじっくり交流していただけると展望が開けそうです。遊びにお越しください!
5/30(火)学部生向けレクチャー 他大の学部生さんもお招きしてにぎやかにやろうかと。
6/2(金)院生向けワークショップ(こちらはクローズドなのですが、ご関心あればご相談ください)と、夕方からは公開講演。「トランプのアメリカ」の起源から説き起こして、現代アメリカ史のとらえなおし。宮田伊知郎さん(埼玉大)のコメントとともに。
6/4(日)アメリカ学会でのラウンドテーブル state powerをめぐって。
6/6(火)小瀧陽さん(一橋特任)と松原の報告を糸口にして、新著The War on Alcoholをはじめとする諸論点についてワークショップを二部仕立てで。佐々木一惠さん(法政大)のコメントとともに。
OAH(Organization of American Historians)、日本アメリカ学会、日米友好基金にスポンサーしていただきます。多謝。立教大学アメリカ研究所でおむかえします。
第二章を書いています。
目次
第1章 知的障害をめぐるポリティクス―「精神薄弱者問題」と移民制限
第2章 ヘンリー通りセツルメントと医療、社会、政治―二〇世紀転換期ニューヨーク市における「訪問看護」の現場から
第3章 産業看護婦による移民のアメリカ化―安全運動と訪問看護運動との協働
第4章 農村住民の健康意識改革にむけて―二〇世紀初頭南部のコミュニティ・ヘルスワークとその限界
第5章 二〇世紀前半までのアメリカ病院制度の発展―「公共空間」の主導権をめぐる争い
2016年のアメリカ大統領選はドナルド・トランプの勝利に終わりました。びっくりです。まったく予想しませんでした。
上院、下院でもトランプ与党になる共和党が多数を占めました。最高裁判事の任命にもトランプ色が濃厚に出るでしょう。オポチュニスト(ご都合主義者)だから大統領になれば穏健化するとみるのは呑気にすぎます。敵をたたくことで支持をかき集めてきた人は、その方法を簡単には手放せません。なにより、たとえトランプその人が豹変しても、彼が解き放った憎悪のレトリックを学んだ人びとが歩みを止めないでしょう。え、憎悪は言いすぎですか?既成政治へのノー、職業政治家たちが見すててきた低所得層の悲憤のあらわれでしょうか。出口調査からもうかがえるのは、単に経済的な苦しさだけでは説明できない、分断の根深さです。社会への異議申し立てだと一般化すると 、トランプ集会の怒声や暴力の意味をとらえそこねます。4年、8年にとどまらない影響を覚悟せねばなりません。
それにしても、どうしてわたしはこの展開を予期できなかったのでしょう。これは歴史家としておもしろい問いです。この判断ミスには歴史像がおおいにかかわっているのです。
「世論調査も政治学者もみんなしくじったよ」となぐさめてくれますか、ありがとうございます。しかしですね、たとえもうちょっと接戦予想が出ていても、やっぱり最後はヒラリー・クリントンが逃げ切ると見たのじゃないかと思うのです。
いまから考えてみれば不思議な判断です。クリントンへの支持が伸びず、トランプが最終盤にまた差を詰めてきたのも聞いていたはずです。無茶な政治家が支持を得るのは、Brexitから、プーチン、フィリピンのドゥテルテまで山ほどいます。なんの説明責任も果たさない安倍自民が圧勝したりするのを目の当たりにして、それについては予測もするわけです。どうしてまたアメリカだけはクリントンだろうと楽観したのでしょう。
判断を縛ったのは、アメリカの進歩、理性、自由への信頼でしょう。紆余曲折はあっても、いくらなんでも「トランプ」のような明示的な逆行にはなびかないのがアメリカの趨勢だ、まぁこんな歴史像を心のどこかに持っていたわけです。
うかつです。自分も含めて、歴史学研究の成果はそんな楽観の修正を進めてきたというのに。アメリカの「市民」や「自由」がわかちがたく内包する人種やジェンダーといった要因はよくよく研究されてきました。アメリカの「豊かさ」がはらむ社会的な緊張や抑圧は大きなテーマです。「理性」や「科学」や「専門性」といった制度がかかえもつ緊張もまた注目をあびてきました。「感情」や「身体」にまでおよぶレベルで、人と社会の動態を立体的に探ろうとする試みが始まっています。なにを今さら、素朴な近代化論に寄りかかっているのやら。
しかしこの失敗は、多くを教えてくれます。
歴史像がどれほどひそかに人の思考に入り込み、いったん侵入すると自覚から逃れていくか。論文を書き、教室で話すときにはあれこれ検討を加えていても、ふとした日常的な判断にはずいぶんとシンプルな見立てが根を張っているわけです。
「アメリカ」がかくもやすやすと近代社会のモデルとして君臨しつづけていること。「日本」ではいろいろと逸脱があっても、まぁ「アメリカ」は大丈夫でしょと油断する。おっとっと、アメリカは標準ですか?そもそもその「標準」とやらの内実はどんなものでしょう。
これらはただちに課題のありかを指し示してくれます。
人の思考の基礎に入り込んでくる歴史像こそは徹底的に鍛え直していくべきものです。「歴史」、それは世界を見立てるための基本のレンズ。
この一週間に相次いで出ている論評は近年のアメリカ社会の経済的苦境を基軸にするものが多いように思いますが、事態の根はもう少し長い時間軸でみる必要があります。この長いパースペクティヴを、もっとハンディに日常的に使えるようなかたちで提示していかねばなりません。
良くも悪くも「アメリカ史」が日本社会での考え事の肝になっているなら、アメリカ史学はもうちょっとがんばらねばなりません。うっかりした歴史像を標準にしないためにも、やるべきことがたくさんありそうです。アメリカ事情をジャーナリストや政治学の方たちにお任せしすぎなのは要反省。
それにしても、アメリカ史の勉強がおもしろく、教室が熱を帯びるのはこういう事情があるからかとあらためて自覚するところもあり。情勢は厳しいものがありますが、それでも、この歴史像の呪縛を解いていくところからやれることがあるだろうと思います。
@アメリカ史学会 第13回年次大会
2016年9月17日(土) 明治大学駿河台キャンパス 1093教室 14:00~17:30
松原宏之(立教大学)
「文化史は終わったのか―カルチュラル・ターン後のアメリカ史」
野村奈央(埼玉大学)
「相互扶助としてのホームパーティ―アーミッシュ・コミュニティにおける文化の実践と宗教アイデンティティの形成」
小林剛(関西大学)
「歴史という檻と視ること―美術史からヴィジュアル・カルチャーへ」
コメント:
生井英考(立教大学)
丸山雄生(一橋大学)
子どものサッカーチームのパパコーチをやってます。なかみは、応援と球拾いですけどね(技術面はチームOB中心のちゃんとした「コーチ」陣がいます)。そんななんちゃってパパコーチとして、今回の選挙はちゃんと行きたいぞと思い一筆。
野球とテニスで育ったもんでサッカーはド素人。でもうちのチームのサッカーがなかなか楽しいのはわかります。弱いんですけど、地域で長く続いているチームで、子どもが自分で考えてプレーできるようにという方針がぶれないのに感心。お仕着せじゃなくて、自分でサッカーを楽しむ<自由>を手放さないのです。
ほら、試合になると、あぁしろこうしろとか指示したくなるじゃないですか。それはかたくなにやらない(たまにやっちゃうと後でコーチがへこんでる)。練習はけっこう走るし、基礎技術もしっつこくやりますが、それはひとえにゲームのときに子どもが自分を表現する土台として。子ども同士が声かけあいながら、感じあいながら、ゲームを展開するための肥料として。戦術的な約束だってあるけど、ピッチに立ったらきみらでやりなと。
エリートチームじゃないけど、長年やっているうちに身につけた方法みたい。卒業後も子どもたちがどうなっていくかをみているうちに、手近の一勝、目先の「強いチーム」じゃダメだなと思ったらしい。けっこうカッコいいんです。
で、ここのパパコーチたちと呑んで酔っぱらうと、「どうやったら強くなるかね、うまくなるかね」的な話題に毎回なるわけです。わたしド素人ですから、技術的なことはわかりまへん。ニコニコして無口にグラスをなめてます。
でも内心思っていることはあり。「ピッチの外を整えるってのがあるんじゃない?自由な社会をつくるのが大事よ。パパたちママたちにできることってそれじゃん?」って。
2016年6月25日(土)14:30~18:00
池袋キャンパス 11号館2階 A203教室
越村 勲 氏 (東京造形大学教授)
「アドリア海の海賊ウスコクから見た近世(近代)の国家形成」
鈴木 英明 氏 (長崎大学多文化社会学部准教授)
「奴隷制は死に絶え行くのか―19 世紀インド洋西海域世界の奴隷制の変容」
木村 直也 (本学文学部特任教授)
「日朝関係の近代的変容と境界領域 ―明治維新期の対馬を中心に」
《コメンテータ》
荒野 泰典 (本学名誉教授)
同日に大学院説明会もあります。アメリカ史でご関心の方は松原までご連絡を。
「安保法制」法案の強行採決を私はけっして認めません。思想信条のちがいを超えて、この審議過程は容認できないものです。なぜなら、それは日本社会から責任ある/応答する responsible /accountableで自由な言論を奪い、ついにはわれわれを滅ぼすものだからです。
法案の中身についても言うべきことは山ほどありますが、それはいったん措きます。
衆院での強行採決の過程は、違憲だという批判や指摘に与党がまったく答えないものでした。安全保障上の疑義について、与党が自らの期待や信念だけをくり返し、絶えず対話から逃げ続けたものでした。運用の具体についてすら答弁は定まらず、それにもかかわらず与党は論点をずらすことに熱心でした。そればかりか、議論を求めるメディアへの威圧をちらつかし、与党内部の発言すら封じました。この結果として世論の不支持が増えると、いっそう逃げ腰になって強行採決にいたります。11本もの法案を束ねた提案にかけられたのはわずか116時間です。
この強行を可能にした300ほどの圧倒的議席がアベノミクスへの賛否を軸に与えられたに過ぎなかったことは忘れることはできません。昨年12月のその選挙はおよそ争点らしきものもない中でこの経済政策に議論をしぼって仕掛けられたのでした。与党は安全保障政策上の信託を受けていません。
ここにあるのは、拮抗した議論が合意点をみつけきれずにやむなく到った多数決とはまったく異なるものです。多くの人があずかり知らない法案を、中味ある審議から逃げ回った自民党公明党が勝手に採決したわけです。
憲法さえ無視せざるをえないほどの事態があるのだとみるみなさん(わたしはこの見方に同意しませんが)もさぞ歯がゆかったでしょう。不思議にも、与党はそれほどの喫緊の事情を示すことも、自案の妥当性を証明しようとしませんでした。国際情勢の悪化を喧伝しながら、それがどんな変化なのかはいつもほのめかしどまりで、現実味のない事例を断片的に示すだけでした。外交を含む政策方針の全容すらついに語らずに、与党だけが国の安全を考えているという強弁だけがばらまかれました。へたくそな囲碁みたいな、お粗末な話です。
こうした対話なき決定、応答を放棄したやり方は、おそるべき無責任体制を生み出します。だって、誰が何を根拠になにを決めたかがわからないのですから!責任を問うことができません。検証のための足がかりがありません。そのくせ、その都度の政権が勝手にサジ加減する能力だけが与えられます。
このトホホな欠陥は是が非でも隠さねばなりませんが、いったいどうやって?
手っ取りばやい方法は、あらゆる場面で無責任体制をつくることです。ちょうどひとつのウソを隠すためにウソやごまかしを重ねるのに似ていましょう。どこかできちんと検証をすると、そのやり方を他でも適用せよと圧力が高まります。そうならないよう芽を摘むにはいつもこの無責任体制をつかうのがよろしい。
この無責任体制は、すぐに民間にも滲み出していくでしょう。合理性や検証可能性とは別の理由で、責任者不在でことを決める権力には搦め手からすり寄るのが良いでしょう。こうして、民間にもまたこの流儀に連座していきます。
このみっともない無責任連合体はバレたくありませんので、余分な批判や検証は押さえ込んでおかねばなりません。大事な特別委員会を中継しなかったNHKはとっくに事態を先取りしています。
いやぁ、活気のある社会だと思いませんか?自由で闊達な議論を阻む世界。こんなところにイノベーションなんか生まれますかね。クールな判断や検討を避けて、ごまかしを積み重ねていく政治。こんなのがホントに国際政治の場で渡り合えますか。こんなうっとうしい世界に、力量と未来のある若者はかけてくれますかね?
右でも左でも、老若男女を問わず、すべてのみなさんに乞います。この法案はおかしい。止めましょう。押し返しましょう。
2015年6月20日(土)
14:30から立教大学池袋キャンパス 5号館5121教室にて
■「底辺」からの産業革命―長い18世紀イングランドの中間団体と貧民(長谷川貴彦)
■ 医療、福祉、社会運動の境域で ―20世紀初頭ニューヨークの訪問看護婦たち (松原宏之)
■ 規律と実践のあわい―戦時期日本における子どもの食べることをめぐって (宝月理恵)
■ コメント 高林陽展
12:35からは自由論題報告も。
12:35 隆慶和義とその意義 大 晶(立教大学・院)
13:05 近世の諸メディアにおける「女今川」―歌舞伎・浮世絵・双六
安田千恵美(立教大学・院)
13:35 産業革命期イギリスの非国教徒説教師ジョージ・バーダー
桑山裕佳子(立教大学・院)
こんなご時世に、平気な顔でリベラルアーツの意義を謳う。しかも不穏で危険な学であれと言う。お上の言うこともそのまま聞く気はないぞと文書になっている。へぇ、こんな大学らしい大学が今でもちゃんとあるんだ。腹が据わっているな文学部。やるじゃない立教。
前任地にも自由の気概は満ちていたと思うし、学生たちはラディカルかつ優秀。でもいったん学科・課程や学部の外に出ると猛烈な逆風で立っているのもひと苦労みたいな感はありました。
違いを生み出すのは、大学の編成原理でしょうか。
国立大学で人文社会科学の意義を説くとき、それが世界への責務だとわたしは論じたと思います。ところがこの言い方をすぐに誤読する人が出てきます。国益にかなうか、ひらたく言ってもうかるか、なにか新規市場を開けるのかと。その成り立ちからして国を担い、国策を支える人材づくりを目標に生まれた地方国立大学では、「世界への責務」はいつも狭っ苦しい意味に切り詰められがちでした。
池袋のこの校地にはこういう世俗的で国家的な論理以外の原理が埋め込まれているようです。人とはどんな存在か。この世界はどうなっており、いかにあるべきか。そしてそのために、この大学にはなにができるか。世間でもお上でもましてや市場のためでなく、生のためにこそ考え、論じ、動けと。日常的にはまったく世俗的な大学ながら(わたしクリスチャンじゃないし)、そのへそには世俗一本におさまらない倫理の軸が通っているらしい。なかなかしたたかです。
ひるがえって、そうかとぼんやり気づきます。いまの日本の社会に、大学に、政治や職場に欠けているのは、複線的・複層的な価値や論理を埋め込むための工夫か。それはなんだろうと考えをめぐらしています。
(本館をはさんで両側に旧図書館とチャペルとが並びたつ。)
新しい勤め先に小さな博物館があります。数年前まで図書館だった建物を改装して、140周年を期にした大学史を展示。ひとけは少なく、ひっそり勉強するのも良さそう。
印象深いのは、この大学の歴史物語に、第二次世界大戦が大きな画期として位置づけられていること。戦時の圧力に負けて、そして内部からも迎合者を出して、立教は文学部を廃止したそうです。リベラルアーツを基軸にしたこの学院はこのときいったん死んだわけです。そして、立教のいまはこの敗北からの復活をかけたものとして描かれます。
立教が掲げる「自由の学府」、期待しても良いかもなと思いました。
たかが博物館、たかがお話というなかれ。苦杯の記憶を刻んだ歴史像は、その後のふるまいにガイドを与えていきます。クソ、しまった、やられたという物語を編んだこの大学は、負け犬になりたくなければ次は踏ん張るしかない。時流にただ流されるのでなく、社会をメンテナンスし、多元的でゆたかな世界と、自由な人とコミュニティをつくることで。
やわなお坊ちゃんお嬢さん大学だったらどうしようとちょっと心配しながら移籍しましたが、耳を澄ますと、不穏な発言がさらりと出てきます。楽しみです。
横浜国大 教育人間科学部 人間文化課程を中心とするグローバルスタディーズ・プログラム、今年も展開中。
北米班、今年はカナダ・トロントへ。初日の今日は、トロント大での学生会議に参加。今年のお題は「日本」で、“Japan Embattled: A Nation in Transition”とタイトル。学部生が組織していますが、なかなか充実した会。横国の諸君もがんばっています。
拙著『虫喰う近代-1910年代社会衛生運動とアメリカの政治文化』(ナカニシヤ出版,2013年)が、「第9回 女性史学賞」を受賞しました。ありがとうございます、励みになります。
授賞式がさらにまたありがたいものでした。審査委員会と評者とがそれぞれ剛速球のコメント。わたしは受賞講演なるものを脂汗をうかべながら必死で務めることに。おかげさまで、とてもとても得るところの多い会になりました。楽しかったです。同時受賞は澤田佳世さんの『戦後沖縄の生殖をめぐるポリティクス-米軍統治下の出生力転換と女たちの交渉-』。ありがとうございました。
この間、たくさんの書評もいただいています。記して感謝いたします。
今年度のジェンダー史学会大会を横浜国立大学で開催いたします。
シンポジウムは「原発とジェンダーの現代史」。ぜひお越し下さい。
日時:2014年12月14日(日)
場所:横浜国立大学教育人間科学部7号館
グローバルスタディーズ・プログラム、今年度の北米班はトロント(カナダ)でフィールドワークを実施します。2015年2月末から3月初旬十日ほどの予定で十名のチームです。
参加希望学生は、10月1日(水)三限に一研319にお集まり下さい。今学期水曜三限のスタジオを履修できることが条件です。お待ちします。
今週末のアメリカ史学会年次大会、わたしもシンポジウム「第一次世界大戦とアメリカ」でお話しします。タイトルは「第一次世界大戦経験の政治文化史―革新主義運動の高潮、頓挫、余波」。土曜午後、亜細亜大にて。
14:00~17:30
シンポジウムA 第一次世界大戦とアメリカ(521教室)
司会:
青野利彦(一橋大学)
報告:
西崎文子(東京大学) historyとhistoriographyのあいだ―「新外交」をめぐる考察
一政(野村)史織(中央大学) 越境的な民族・国家像の形成とアメリカ化
―第一次世界大戦とアメリカ合衆国の移民
松原宏之(横浜国立大学) 第一次世界大戦経験の政治文化史
―革新主義運動の高潮、頓挫、余波
コメント:
高原秀介(京都産業大学)
佐々木一惠(法政大学)
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